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東日本大震災・被災地支援

2013年4月 4日 (木)

青年部・被災地支援活動報告集

2012年版「青年部・被災地支援活動報告集」ができました。

「子どもたちの笑顔が見たい」

「復興支援も心はひとつ!」など、

本部青年部や各支部青年部の活動記録が満載です。

読んで、語って、仲間を増やそう。

青年部は今年度も被災地の仲間と復興に取り組みます。

*報告集は今週末(4/5)までに支部着で発送済みです。

Photo

2013年3月26日 (火)

仲間の想いを軽く扱うなっての凸(`Д´メ)

定期大会が終わって一週間余り。

人事異動もあって、あわただしい毎日。

給与計算の関係上、今日付で新たに本部に異動されてきた方々もいる。

ってなわけで、本日は引越し・・・ι(´Д`υ)アセアセ

机の上、中、後ろのカウンターに積みあがった未整理のままの書類(いや、ただの紙かな?)を片付け、パソコンも移動する。

自分のだけじゃ、申し訳ないので、ぐるっと3台、サクサクと移動して、机の下にもぐってコンセントを入れなおし、すぐにでも仕事ができるようにする。

そして、移動は完了したのですが、放置してきた未整理の紙類を仕分けして、ほぼ捨てる。

こういうのは、担当が変わったときにしかできないの。

だから、捨てる。

しかし、すべては終わらなかった(ρ_;)

んで、大会後にやろう×2と思っていたのに、できなかった被災地支援活動の報告集をとりあえず、宮城県労連の小玉さんに送る。

昨年は、このブログ活動を通じて交流させていただいている、仙台市内にお住まいの「あめさん」にも住所を聞いて送ったのですが、そーいえば、引越しんたんだな、と思いまして、躊躇。

あめさ~ん、送りたいのでよろしかったら、新しい住所を教えてくださ~い・・・(* ̄0 ̄)ノ。

てなことで、時はさかのぼること、3月9日、我が東京土建の上部団体である全国建設労働組合総連合=全建総連の「復興支援と災害対策を考えるつどい」が開催されました。

私は行っていないのですが、連日このブログにコメントをくれているジュタカさんが行っているはず。ジュタちゃんてば、タブレットもったから、サクサクとコメント入れてんでしょ。

って、そんな話じゃなく、その3月9日の様子は、目黒支部青年部のブログにも出ていたので、勝間田後継者対策部長も緊張しながらがんばったんだろーなぁ~って思ってたの。

うちの定期大会の分科会でも会ったから「ご苦労様」って声もかけたら、「むちゃ×緊張しましたよ」って言ってたよ・・・。

で、今日になって全建総連のホームページでもアップされてるかな?って覗いたら・・・(゚Д゚)ハァ?

とりくみ全体の記事はまあ、いいでしょう。

しかしね、各組合からの報告はPDFで要約って、これでいいのかよ、このページは、「全建総連が、こういう取り組みしましたよ」って、紹介するだけか?

被災地支援のとりくみってさ、もっと仲間の想いがこもってるんじゃねーの( ゚皿゚)キーッ!!

たのむぜ、TQ教宣部長、勝手に要約されちゃ、支援活動に取り組んでる仲間の想いが伝わんないよ。

この時って、NDNのYくんもビデオカメラ持って取材では?

このHPの運営は、おなじみのAPでは?

まあ、いずれにしても管理者の問題だけど、こりゃねーぜ。

仲間の想いを軽く扱わないでよ凸(`Д´メ)

2013年3月19日 (火)

大会分科会の支部活動報告をアップしたよ

昨日は、感動をありがとうってなことで、板橋の分科会報告のことを載せましたが、その報告文書も含めて4つの支部からの報告っす。

まずは、板橋支部の東日本大震災復興支援活動と子育て世代向けイベントについて

これは昨日も記事に書きましたが、須賀さんの報告はホントに感動的でした。

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「09.pdf」をダウンロードしてください。

続いて世田谷支部の組合員結集のための企画っす。

う~ん、こういう視点もあるのかぁ~と感心しましたよ。

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「18.pdf」をダウンロードしてください。

さらに、狛江支部の若手の台頭を促す子育て世代イベント報告です。

牧岡さんの報告は、ユーモアにあふれていてよかったっす。

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「35.pdf」をダウンロードしてください。

そして、東村山支部のXmas night partyの取り組みです。

ココでも記事にした内容ですが、報告してくれた佐藤書記に感謝っす。

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「37.pdf」をダウンロードしてください。

さて、3年間にわたって、後継者対策部を担当させていただき、ありがとうございました。

いよいよ、今週末の会議で新年度の担当が明らかになります。

が、もう、いろんなところで話もされているので、言っておきます。

民は後継者対策と青年部の担当からはずれると思います。

だけども、青年部の仲間や後継者対策部の仲間と離れ離れになるわけではありません。

10年前、本部青年部の担当書記から国保に出向することが決まった時の仲間のつどいで「青年部活動は自分のライフワーク。書記でいる限り、ずっと関わりをもっていきたい」とお話ししました。

その想いは今も変わりません。

この3年間でその想いは、よりいっそう強くなっています。

それは、青年部だけじゃなく、子育て世代の仲間も含めて、ホントに多くの仲間といろんな活動をしてきたから。

加えて、被災支援活動もここでやめるとか、関わらない、ってことにはなりません。

それこそ、ライフワークとして、青年部や後継者の仲間と一緒に活動していきますよ。

ってなわけで、具体的な役割分担は、来週発表っす。

2013年3月11日 (月)

震災・津波・原発事故から2年の日に

震災から2年の日ですね。

2011年3月11日、午後2時46分、あの日のことを覚えていますか?

自分自身のこと、家族のこと・・・

つながらない電話・・・

職場からの帰路・・・

テレビに映し出された映像・・・

繰り返し続く余震・・・

そのあとの計画停電やガソリン不足・・・

お店から電池がなくなり、納豆やヨーグルトもなくなった。

今ある生活が「当たり前」じゃないことを気づかされた日ではなかったですか?

今日だから思い出すんじゃない。

今でも大変な生活を余儀なくされている人たちがたくさんいる。

地震や津波のなかで助かった方々のなかでも、亡くなられている人たちがたくさんいる。

被災地や現地でがんばっておられるみなさんのことを忘れない・・・。

でも、テレビや新聞で報道されるのは、この時期だけのような気がします。

それではダメ。

そんなことを思いながら、今年も支援活動の報告集をつくっています。

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↑後継者対策部は、校正して、青年部にチェンジしますが、今日、最終校正を終えました。

16ページのフルカラーです。大会には配布できるようにします。

この報告集に、震災直後からの石巻での支援活動でお世話になった宮城県労連の小玉さんが寄稿してくれました。

2月に石巻に行った際に、一緒にバスで見学をしたとき、はじめて小玉さんの地震発生時の様子をお聞きしました。

四谷から丸の内線に乗って移動中に地震が起こり、電車は停車したまま2時間。

震災発生後、すぐさま医療機関で働く奥さまがボランティアで宮城入りし、帰京。

「もう、昔のふるさとは残っていないと思った方がいい」とおっしゃったそうです。

そして、ご夫婦で震災後の宮城に戻り、小玉さん自身は、半年間にわたって、石巻の支援センターに寝泊りして全国からのボランティアを受け入れてきました。

そんな小玉さんの寄稿です。

私たちの生活からすべてを奪った東日本大震災から間もなく丸2年が経とうとしています。この震災での宮城の犠牲者は、死者9,534人、行方不明者1,314人、震災関連死812人を含めると宮城県だけで11,660人の方たちが亡くなっています。原発を抱える女川町の当時の人口が約9,500人でしたから、町1つが消滅した事になります。

宮城の避難者数は現在、親類などへの避難者も含めて11万2千人(うち、県外への避難者数は8千人強)となっており、そのなかの多くが県内(一部岩手県)406団地・22,095戸の応急仮設住宅で不自由な生活をしています。(それ以外に、借り上げ仮設住居が約21,400件あります)。とりわけ、特に被害の大きかった石巻市だけでも仮設住宅がなんと131ヶ所に分散しています。

 宮城では、この間、大震災発生直後から「宮城災対連・東日本大震災共同支援センター」を立ち上げ、石巻市を中心にドロ掻きのボランティア、物資支援、炊き出しなどを行なって来ました。石巻市にボランティアセンターを構えていた11年4月~9月の間には、全国の様々な民主団体、労働組合から延べ1万人を超えるボランティアの方々に駆けつけて頂き、津波で操業を停止した冷凍工場での腐った魚の処理や、床下のヘドロ掻きなどの作業をして頂きました。このボランティアには、東京土建からも書記局始め、青年部、現場の組合員さんなど大勢の方に駆けつけて頂き、専門性を活かした家屋、ブロック塀の解体や、津波で甚大な被害をもたらした広大な墓地の再建などボランティアの先頭に立ち奮闘して頂きました。

また、災対連・共同支援センターが支援物資の提供も含めて行なってきた「炊き出し&なんでも相談会」は19回を数えます。これまでの来場者は11,800人にのぼり、毎回多くの被災者から感謝の言葉をいただきましたが、逆に被災者が力強く生きている姿に、行動に参加したスタッフが励まされる場面が多数ありました。仮設住宅入居者への訪問・聞き取り活動では、「復興のスピードがあまりにも遅い」など行政への不満が多く聞かれます。復旧・復興遅れの要因として自治体職員の不足が挙げられます。行財政改革と広域合併による県と市町村職員の削減が今回の震災では各自治体に大きな困難をもたらしました。(宮城全体では震災前の5年間で4,600人の削減が行なわれた)早急な職員の増員を求めて取り組みを強化していく必要があります。災対連として国や県への強力な働きかけを続けていかなければならないと思います。

 震災から2年近くたちガレキは片付き、少しずつ一歩ずつではありますが、街は綺麗になりつつあります。先日、東京土建本部書記局研修を宮城で開いて頂き40名程のみなさんに、被災地を視察して頂きました。ガレキを撤去するようなボランティアはありませんが、このように被災地に足を運んで頂き、被災地でお金を使ってもらい、現状を見て、「被災地の今」を伝えて頂く事がいま求められていると思います。

 引き続き、東京土建のみなさんの支援をお願いし、今後とも私たち宮城県労連と協力して頂ければ幸いです。

     宮城県労働組合総連合(宮城県労連)事務局次長 小玉高弘

原稿をいただいたのは知っていたのですが、読まずに来ました。

今日、この日、きよ氏さんとあかつき印刷の森くんと3人でこの報告集の校正を終えました。

そして、あらためて仲間の想いを読み込みました。

今年は何ができるか分かりませんが、基本は変わりません。

現地に出向いて、自分だちができることをする。

それだけです。

そして、亡くなられた方々に・・・合掌

 

2013年3月 2日 (土)

今年も報告集をつくります

3月になりましたね。

昨日は、夕方まで中央執行委員会。

う~ん、こりゃ、5時までかかるな、って感じで進行していました。

今年度最後、定期大会前の会議。

大会に向けて役員選挙の立候補受け付けもある。

そして、夕方からは地元に戻り、中学校PTAの役員&委員の慰労会。

「司会、お願いしますね~」なんて言われていたのですが、ん?司会ったって・・・開会のあいさつ、主催者のあいさつ、校長先生にあいさついただいて、乾杯ってことでしょ?って、メールで確認し、そんな感じで午後6時10分スタート!

2時間ではおさまらず、とりあえず、中締めして、1時間延長。

さらに、別の店に繰り出して・・・帰宅は12時を過ぎていました。

と、いうことで昨日のブログ更新はお休みしました。

はい、いいわけです。

さて、3月17日の定期大会に向けて、昨年も作成した被災地支援の報告集を作り始めました。

すでに各支部のとりくみは、それぞれにオリジナルの報告集にまとめられているので、そこからはチョイスするんだけど、青年部の仲間たちや青年部の先輩である支部の役員のみなさんの原稿を依頼。

江東支部の名越副委員長と鈴木後継者対策部長は、夜中にきよ氏さんのところへ原稿が届いたって聞いて、杉並支部の二人の役員にも昨日の朝、フェイスブックで原稿を依頼しました。

そしたら、二人とも文章を送ってくれました。

杉並支部の縫村(ぬいむら)副委員長からは、短いけど想いの深い文章。

自分自身の事を言えば、単なる傍観者だったと思う。
何の力にもなってません。
言えるとしたら、南相馬でボランティアで片付けに行った家の事。
まだまだ、住めるのに壊されてしまう事。
なのに、おじいちゃんおばあちゃんは笑顔で見送ってくれた。
どんな思いだろうと、感慨深かった。
原発さえ無ければ、再生出来た物が沢山ある。
ただ、不自由の無い生活を送って来た自分も、原発の恩恵を受けていたのだろう。
と、反省してます。
これから、何が出来るのか暗中模索…

Photo

↑南相馬での活動の様子です。

そして、同じく杉並支部の中村書記長からは、あっという間に以下のような文書が届きました。

ざっと感じるのは『生きている』ということだ。
確かに沿岸部は津波の影響で、一年たった今でも瓦礫は積み上げられ、腐敗臭なども感じる。一歩、住宅街に足を踏み入れれば、そこは見た感じ、何事もなかったかのような風景をしている。ただし、それは表向きだけだ。
震災後、一定の住宅改修は行われたそうだが、まだまだ『住む』ことが容易に出来るような代物ではない。床下からはヘドロの臭気が立ち上がり、押し入れの床には、拭いても拭いても塩が浮かび上がってくる。最低限の修繕を行ったところから一歩も先に進んでいない。大手メーカーは建て替え取り競争で必死だし、町場の職人さんでは、人手が足らなすぎてどうにもならない状況のようだ。

 

「いくら払ってもいいから来て!」と言ったって、それほど楽な生活じゃないだろ?!と思いながらも、それほどまでに住む事が容易ではないのだ。

住宅相談をしながらそう感じた。
多くの人たちがそのような状況の中で生活をしているわけだが、先に記載した何事もなかったような風景だけを見て帰っていく行政を操る人達には『表向き』だけしか見えていないのだろう。
そこに暮らす人たちはたくましい。近所同士で、地域で手を取り合って、助け合いながら、明るく生きている。明るいってのが一番重要だ。

  

我々は 何が出来るだろうか?や何をするべきか!よりも復興できるまで何かをやり続ける事が重要だと。
他の地でも出来る原発反対の運動などは別としても。

この二人・・・今は杉並支部の四役ですが、青年部の先輩。

民が一緒に活動してきた仲間です。

青年部を卒業してから、15~17年くらい経つんだけど、すごいよこの二人は。

中村タカちゃんには・・・「職人にしておくのがもったいない」って言っておきました。

そのタカちゃんが新年度からは本部の役員に戻ってきます。

戻ってくる、っていうのは1992~1997年まで、本部の青年部長だったからです。

あれから16年・・・まあ、お互いに年はとりましたが、ただ年をとっただけじゃない。

仕事を通じて成長し、大きな視野を持っている。

そして、人と人とのつながりが大切だと実感してる。

大会以降、また、一緒に活動できるのが楽しみっす。

こっちもがんばらないとね。

2013年2月20日 (水)

八王子で・・・新たな歌と新たなつながり(*^m^)

チッ、どこに行っても、新年度の本部役員人事の話が出てくるな

とりわけ、専従役員のところ

あのね、人事は玉突きなの。

上に行く人がいれば、その穴に誰かが入るの。

専従役員の人事は書記長が決める。

いろんなこと考えるのは勝手だけど、公然と口に出して言うなっての。

そんな話をしている人たちも支部では役付者なんだから、その根拠のない話が事実みたいに伝わるでしょ。

本部の役員も同様。

自らの立ち位置をふまえて話すべし。

人事は玉突きと同時に、水ものでもある。

どっかで詰まるとまるっきり変わるんだから、定期大会が終わってはじめて確定するの。

PTAみたいに半年も前から決めておく、なんてことはしないんだからね

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

と、いうことで、今日は八王子で開催された三多摩国民春闘勝利総決起集会に参加してきました。

前ふりは、その会場での話。

空いた穴を埋めていけば、誰がどこに行くかなんてことは、わかるでしょ

さて、杉並支部出身で杉並区に住んでいる民が三多摩の集会に行く理由はただ一つ。

土建バンド

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↑これはリハーサルの様子。昨日に続いて、西東京支部の小坂さんが撮影した写真を拝借しました。

例年、この春闘集会に向けて、土建バンドの首謀者である溜口兄貴が新曲をつくる。

かなり、悩んで、つくった曲を仙台に行った際に聞いて・・・ダメだしをした。

テーマが散漫。

溜さんらしくない・・・って

そして、新たに書き込んで来た曲。

先週の土曜日に立川で練習があったんだけど、行けなかった。

だから、今日はギターで伴奏だけだったんだけど、いい曲でした。

はじめて披露する曲でこんなにおさまりが良かったことってないかも

詩は1~4番まである。

ギターを弾きながら、3番の詩に熱いものがこみあげた・・・

揺れる大地に 逃げまどう人たちが 

わたしのふるさとが 波にさらわれていく

そう、やさしさと 涙を送ろう 

手をつなぐことだ 一緒に汗を流すことだ

・・・書記研修で一緒に石巻に行ってよかったと思う。

被災地に残る津波の被害を目の当たりにして、さらに震災や津波の直後から現地に入った民やきよ氏さんの話を聞いてもらってよかった。

そう、手をつなぐ、一緒に汗を流す・・・しかも、みんなでね、って思う。

3番だけじゃなく、他もいいんだよ。

今度は音源もアップできるようにしますね。

そして、この集会で連帯のあいさつをしてくれたのが、毎週金曜日に首相官邸前でがんばっているこの方↓

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紫野明日香さん・・・放射能から子どもを守りたいパパママの会、というよりも劇団前進座さんの紫野さん。

来られることも知らなかったので、舞台袖でごあいさつをして、影に隠れて写真をパチリっす

ココでも書いたけど、地域で脱原発のとりくみに関わっていない支部がある。

三多摩でも5支部ある。

パパママの会は井の頭公園から出発するパレードなんかを定期的にやってるの。

こういうとりくみ関わっていかないとね。

繰り返して悪いんだけど、同じようなことを同じメンバーでやっていてもダメ。

これまでとは違うことで新たな仲間を組織する。

しかも子育て世代のパパ(組合員)、ママ(家族)ね。

今度どこかで紫野さんにも「想いを話してもらう」機会をつくりたいっす。

主婦の会の子育て実行委員会とか、後継者対策の子育てパパ向けにね。

ステージも楽しかったのですが、新たなつながりをつくる・・・そんな、いい夜になりました。

帰りは中央道で30分。

夜は早いんだよね、車の方が

2013年1月18日 (金)

忘れない、1995年1月17日のこと

昨日は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から18年目の日でした。

偶然見つけた、ジャーナリストの三浦誠さんのフェイスブックの記事と写真を掲載します。

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今日1月17日は、18年前に阪神淡路大震災が発生した日です。

当時、私は名古屋市の支社に赴任中。すぐに、バイクで応援取材にいきました。
初めて、足がすくむ、という体験をしました。
どこを見回しても、住宅やビルが倒壊し、住民が茫然としていました。
周囲360度が取材対象なのに、災害規模に飲み込まれて、何を取材したらよいのか、わからないのです。
他社の記者がガレキの上で取材していました。すると、住民から怒声が飛びました。
「おい!そこにはまだ人が埋まっているんだぞ!!」
ある地域の公民館は遺体安置所になっていました。手を合わせて拝んだ後に、亡骸によりそう夫婦の写真を撮影しました。
その夫が私の方にツカツカと歩み寄ってくるのです。
「殴られてもしかたない」と覚悟をしていると…。
「ほかに遺体安置所がありませんか?まだ家族が見つかってないのです。あとドライアイスがある場所を教えてください。遺体が傷まないように…」
申し訳ないことに、私は答えることができませんでした。
18年たっても震災は終わっていません。
約3万9千人が今も災害復興住宅に住みます。
ここでの孤独死は仮設住宅時代とあわせて、1011人です。
阪神淡路大震災で私たちは多くのことを学びました。
しかし、その教訓を政府が東日本大震災で生かしていると、私には思えないのです。
これ以上、災害で尊い生命が奪われることがないようにしてほしい。
政治にも、私たちマスコミにも、問われています。
合掌。
(写真は私の記事の切り抜きです)
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1995年1月17日・・・みんなは何してた?
民は東京土建の確定申告対策活動者会議で箱根にいました。
朝、テレビをつけると黒煙を上げた街並み、崩壊した高速道路からバスが傾いたままで停車。
信じられないような映像が映し出されていました。
もう、あんな大災害は、見たくないし、見ることもないだろうと思っていた。
それがダメなのかもしれないね。
阪神淡路大震災で亡くなられた6434人の8割以上が住宅の倒壊による圧死です。
そして、三浦さんの記事にある、18年たっても震災は終わっていない・・・は、悲しみを通り越して、悔しさを感じます。
地元に住み、住宅建設に携わる私たちができることは、たくさんあります。
あの日のことを忘れない。
そして、自分たちが日ごろからできることや災害が起きたときにやるべきことを考えて行こうね。

2012年12月 7日 (金)

鉄平のおふくろさんは大丈夫(^_^)v

夕方の地震、みんな大丈夫だった?

長く続いた地震にいやな予感がして、まだ揺れている最中に自宅に電話するとなんとかつながった・・・

民:「・・・あ、洵?地震、大丈夫?」

洵:「(少々興奮気味に)大変だよ!」

民:「どうした?何か倒れた?水槽の水は?」

洵:「そっちは大丈夫だけどさぁ、悠くんが起こしても全然起きない」

民:「・・・」

民:「あっ、そう・・・じゃ、今から帰るね・・・」

小6の洵は東日本大震災の日、余震が続く中で友達と外で遊んでいて怒られた。

今日は兄と二人で自宅にいたけど、兄は爆睡の様子。

「悠くん、悠くん、地震だよ!」って起こしても「・・・あー(-_-)zzz・・・」って感じだったようで、頼りにならない、っていうか、あの長い地震の中で寝ていられる鈍感さが違う意味で恐いっす。

帰宅後、洵の話を聞いて、兄の寝顔を見て、鉄平部長に電話・・・。

午後6時をまわった頃は、携帯電話会社が制限をかけていたのか、つながらない。

じゃあ、メール・・・「おふくろさんは大丈夫か?」

鉄平のおふくろさんは石巻にいる。

テレビでは津波警報、避難するように呼びかけている。

おふくろさんには、この間、何度もお世話になった。

なによりも、現地の人たちは地震、津波の恐怖を体験している。

色んな意味で心配になった。

そして、鉄平からメールの返信が来て、おふくろさんは大丈夫ってことが分かり、ひと安心でした。

安心したので、フェイスブックに・・・こんなコメントをシェアしました。

石巻にいる鉄平部長のおふくろさんは大丈夫とのメールが入りました。地震、津波・・・もう、あんなことは起きてほしくない。東京にいる俺たちよりもっと怖いおもいやあの時のことを思い出している人たちがいる。来年も行こう、石巻。行けなかった仲間たちもいっしょにね(^u^)

すると、仲間たちからたくさんの「いいね」とコメントが入りました。

「行きます!また誘ってください!」

「うちは家族総出で来年もがんばるよ」

愛媛に帰る予定のまっちゃんも愛媛から来るって(^_^)v

うれしいねぇ~

これから寒くなる。

東北はなおさらに。

こっちは、暖かくなったら、なんて思ってるけど、現地の人は寒い×2冬を迎えています。

あの、プレハブの仮設住宅で・・・。

寒いなんて言ってられないね。

冬の間にできること・・・それは春になったら、何をするかと同時に「今できることはなにか」を考えることじゃないかなって思う。

そんなことを改めて考えさせられる地震だったと思います。

【追記】

テレビの津波警報が解除されて安心していた矢先、今年一緒に中学のPTA役員をやっている方から電話があり、「Mさんのご主人が亡くなられた」との知らせを受けました。

Mさんは、3年前に小学校のPTA役員で一緒だった方。

昨年、ご自宅を購入して三鷹の大沢に引っ越したばかり。

ご主人の年齢は同じ、40歳代前半。急に病気で亡くなられたとのことでした。

高校生と中学生の息子2人を残して・・・。

明日、所沢で通夜とのこと。

ご冥福をお祈りいたします。

合掌

2012年11月20日 (火)

みんなの心に響いた青年の想い、支援活動

本日、午後からは大塚のホテルベルクラッシックで全建総連の中央執行委員会。

明日が日比谷野外音楽堂で予算要求総決起集会ということで全国の組合から仲間が集まりました。

予算要求は来年度の国の予算が出される年末まで続くのですが、国会は解散、総選挙に突入なので予算は19年ぶりに越年になるようです。

10月の大会以降、全建総連に移籍して、組織部長となった清水ボス。

専門部に分かれて打ち合わせをしたのですが、民も奈良さんも組織部は変わらずで、清水さん曰く、「座る席がこっちになりましたが・・・」と今後の日程を提案。

さらに、今度の会議では、こんなことを提案したい・・・なんて、お話もありました。

12月に第1回目の部会をやって、1月の終わりに全国の会議。

清水ボスが、どんな提案をするのか楽しみです。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━

そんな、清水ボスも来てくれた日曜日の後継者対策活動者会議。

拡大月間、本部の土建まつり・・・そんなこともあって、10支部から出席者なし(T_T)

練馬支部だって住宅デーだったけど、伊藤けいちゃんと書記の石田くんが来てくれたのに(-_-;)

こっちも基調報告を印刷したのが会議当日の朝という、切羽詰まったなかでの会議でしたが、感想文を読んでいて、仲間の想いってうれしいと思いました。

ひとつは、被災地支援のこと。

東京地評(東京地方労働組合評議会)の青年担当である阿久津くんに半ば無理にお願いした、被災地支援や脱原発に立ちあがる青年たちの特徴は、うちの青年部の活動や自治体や医療機関で働く青年たちの気持ちやはじめの一歩、口に出す勇気など、この間の青年の想いや行動を彼らしく丁寧に話してくれました。

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うちの青年部の活動は、3月に報告集に書いたものからの引用なのですが、それでも新鮮でした。

聞いてるこっちもグッとくるものがありました。

また、そのあとの目黒支部後継者対策部の岩手県大船渡での住宅デーの報告と映像による報告。

仲間からの感想文には、自分たちもなにかできることをあらためて考えたい、いまさらながら(そんなことまったくないけど・・・)、部会でも話し合っていきたい・・・そんな言葉がたくさんありました。

目黒の取り組みは、書記のみなさんの感想が多かったと思います。

今後の被災地支援をどうするか、青年部や後継者の活動を裏方として支える書記としても目黒の取り組みは非常に参考になったと思います。

■目黒支部の報告文書は→「20121118_16.pdf」をダウンロードしてください。

そして、何よりも仲間の熱い想いが報告文書にも映像にも表れていた・・・それが、会議の参加者に伝わったんだと思うよ。

10月の江東支部青年部の石巻の支援活動に一緒に行った江東支部の鈴木後継者対策部長と約1カ月ぶりに再開。

民:「鈴木さん、ご無沙汰をしております。先日は大変お疲れ様でした。新車の調子はどうですか?」

鈴木さん:「ブログにさ、車しか載ってなくて、がっかりしちゃったよ」

民:「え?あー、江東青年部のブログですね、確かに車はしっかり出てましたね。うちでつくった動画には鈴木さんと名越くんがしっかり出ていますよ。」

なんて、話をしながらも、鈴木さんの感想文には「だまされたと思っても、一度は被災地に行った方がいい。作業ができなくても、子どもたちと遊ぶとか、お年寄りの方と話をするとか、そんな人もいた方がいい」って書いてありました。

せっかくなので、鈴木さんの写真を載せておきますよ(^u^)

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仮設住宅に棚をつりました・・・左は名越副委員長、右が鈴木部長っす(ともに江東支部)

・・・確かに、被災地に出向くとみんなが時間を惜しんで食事もとらず、一所懸命になって活動する。

ホントは現地の人たちの話を聞いたり、子どもたちと話をしたり、遊んだりしてあげることも大切だと感じていました。

写真やビデオの撮影も余裕がないとまったく撮れなくなっちゃう。

とにかく現地に行ってみてほしい・・・その想いは3月の報告集でたくさんの仲間が書いていました。

いまさらなんてことは、まったくない。

被災地にはみんなに行ってほしい。

多くの仲間の胸のなかに「何かやらなきゃ」とか「一人じゃ難しいけど、仲間と一緒なら」って想いが小さくてもいいから宿ってほしい。

目黒支部の報告をした日下くんの感想文には「仲間となら何でもできる」って書いてありました。

そう、仲間とならなんでもできます。

あっ、ひとつは被災地支援って書いて、ふたつめを書き損ねました。

そう、ふたつめは、「仲間とならなんでもできる」・・・来年1月27日(日)、再びやるよ、婚活パーティー。

詳細は後日(*^^)v

2012年11月16日 (金)

被災地そっちのけで流用される復興予算2

前記事のつづきです。

(4)復興予算は米日独占企業の懐に入る予算として組まれている

 こうした政府、民・自・公3党合意による流用・横取りは問題の一部でしかなく、この復興予算そのものが、当初から米日独占企業の懐に入る復興予算として組まれていることに根本的な問題があります。福島第一原発事故の収束・除染・廃炉事業はその典型です。

 福島第1原発事故は、米国の要求により、地震国である日本に原発をおしつけた結果です。

 特に福島第1原発は、米国の原発技術者から欠陥品であるという指摘をされているGE(ゼネラル・エレクトリック)製原発であったことに問題があるとされています。

 ところが福島第一原発事故の収束、除染、原発廃炉事業をうけおっているのは、GEや日立、東芝、三菱など、原発建設でぼろ儲けしてきたアメリカと日本の重工業・電気などの独占企業です。

 これらの独占企業は、1基5,000億円にもなる原発建設事業で大儲けをし、さらに事故を起こしても、原子力損害賠償法では事故の責任を一切取らなくともよく、そして原発事故がおきると原発事故対策事業に入り込んでいます。

 福島第1原発の廃炉には最低でも30年はかかると言われ、廃炉費用は40兆円以上にもなると言われています。GEや日本の原発企業には原発建設で儲け、さらに原発事故で大儲けできるというこのうえない儲け話しとなっています。

(5)政府の復興方針は、米国の指示に基づく「ショックドクトリン(災事便乗型資本主義)」〈大惨事につけ込んで実施される過激な市場原理主義改革〉

 世界最大の複合企業であるGEは今年4月に東北本社を仙台市に設置し、「復興支援・サステナブルシティ(持続可能な街づくり)推進本部」を新設しました。原発事業だけでなく、電力、運輸、医療、先端農業などさまざまな分野で市場参入をはかりつつあります。

 また、大手ゼネコンは「復興特需」で大儲けをしており、鹿島、清水建設、大成建設、大林組の大手ゼネコン4社の官公庁発注工事の受注の中心は、岩手、宮城、福島各県のがれき処理であり、政府はガレキ処理について、3年間で総額1兆円以上になるとの見通しを示しています。阪神大震災の3倍以上の金額です。

 阪神大震災のがれきは約2,000万トンで、1年で処理はほぼ終わり、総額3,246億円でした。東日本大震災のがれきは、2,300万トンで、阪神大震災と大差がないにもかかわらず、2012年3月時点の1年後でも処理が終わったがれきはわずか7%でしかありません。

 この原因は、がれきの広域処理にあり、遠くまでがれきを運んで広域処理することで運搬費用はゼネコンの懐に湯水のように入り込んできます。

 1年以上たっても被災者の復興住宅の建設は1%しか進んでいません。しかし2012年1月時点で復興計画を策定した66自治体の内、祈念公園・施設の整備を策定した自治体は27自治体あり、宮城県だけでも東京ドーム52個分の異常な公園建設計画となっています。

 このような政府の復興方針は、米国の指示に基づく「ショックドクトリン(災事便乗型資本主義)」〈大惨事につけ込んで実施される過激な市場原理主義改革〉と言われるもので、被災・災害につけいり、国民に犠牲をおしつけながら、規制改革・構造改革を強行し、米日独占企業に市場を提供し、大儲けさせようという事業展開です。

 

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